楽しく生きる実験的ブログ

日常で感じた事、触れてみて思った事、などゆるく書きます。

今までの偽り

どうやら私は嘘をついていたようだ

何をどうするか、物事を動かすには、どのようなことが最短で、その道にたどり着けるか。

あるいは物理的に考えて合理的に考えて生産性を考えて今風に考えて

物理的に考えて合理的に考えて生産性を考えて今風に考えて

どれだけ自分が苦しかったかということ、それを認めずにそのまま自己啓発を望んだ。

それがどれだけ辛かっただろうか?

その辛かったことでさえ、意味のないものとし、このように生産性を与えないため、自分の気持ちから排除しようとさえしていた。

楽しい物への追求が、なぜか自分の苦しみを追求することになっていた

激しい意見から私を守るにはどうしたらいい

この世の中でこのまま生きるにはどうしたらいいか

なぜこんなに考えて1人で苦しくなってるのか

なぜ人よりこんなに苦しく生きているのか

そしてなぜその苦しみが何も生み出せないのか

生きている意味があるのか

いつしかそう問うことがが多くなってきた

そして私は生きる道をなくしていた。

自分からなくしていた

自分から消えようとしていた

自分でなくそうとしていた

なくなりたかった。

この辛い思い出が、

この辛い思い出たちが、今この現実にまで生きていると言うことを

俺の方が辛いとか、私の方が辛いとか、状況や何かの負担もしくはわかりやすい例で言うと、お金やその物事の緊急性、またわかりやすくした状況でないとその辛さと言うのは、他人には見えないものとして扱われることが多いから

私の辛さは誰にも見えないと自分で思い込んでいた

周りから見れば幸せな暮らしをしているかもしれない。

住む家もあって、両親もいて、友達とも関係が良くて

強いて言うなら、将来がわからない位が問題なのかもしれない位にしか。多分担任には見えないんだろう。

そして、私の苦しみと言うものは理解されないが、ために怠惰

怠け傲慢堂々としすぎ、自分勝手鍛錬が足りないなど。もちろんこんな事は他人にはっきり言われた事はないが、似て嫌なことを言われたこともある。努力が足りないと言われたのは何回あったことか

しかし、私が言う努力と言うものは、その人の言う努力と言うものと違って、

死にそうにづらいのだ。そしてその努力と言うものが、私に死に追いやるものだと、その口から助言を吐いた人はわからないのだ。

私のことを一生生物と言うだろう。

そんな人に自信を合わせていたら、私は怠け者として、この世に生きる羽目になる。

そんな事はわかっていた。

 

そうじゃないよと

自分で言うことをすっかり忘れていた。

こんなこともしてあんなこともして、今日もこれがやってこれができて素晴らしいじゃないか。

なんてことを自分で言うことを毎日忘れてしまうのだ。

自己卑下だけが私の体に残り、将来への気力が持てない。

力が湧かないのは私自身の問題だろう。

しかし私以上に理解の足りない人たちが私のような人たちを苦しめていると言うことをこの世に知らしめたいとばかり思い、ますます私の気持ちは失敗していった。

そこに焦点を今回は当ててみると本当にやりたいことと、私がやらなければいけない事は回避しないと言うことだ。

つまり私が本当にやりたいということは私は嫌がることではないのだ。

私が好きなことをやりたいということと好きなことはやらなきゃいけないことなの

なのに、私は私たちのような人の代弁をしようと10年近く費やしてしまった。

これも別に否定するわけでもないが、私の本当にしたかったこととはかけ離れていたのかもしれない。

やっと最近私が嘘をついていた

自分に嘘をついていたということがわかり始めたのだ。

この苦しさは、私が苦しいということ、嘘をつかれて苦しいということ。

他人に勧められて苦しいということとはまた別の苦しさだったということ。最近少し知れたのだ。

これも人からジャッジされる問題ではない。

苦しみのジャッジとはナンセンスな話だ。私はよく父親が教師のため、アフリカや貧困層の毎日食べられない子たちを考えろと言われたことが1階だけあった。その子たちに比べれば私たちの苦しみなんてもないと

私はそのような苦しみのジャッジから長らく抜け出せないままでいた。

素直に受け取ると言う。私の特徴から私が受け取ってしまったものが多すぎたのか

父親がもうその言葉を言ったことさえも覚えてないだろう。ただ大人のそういうなんとなく世間体を煽る大人っぽい言い回し方というものが、子供の夢を壊すことがあると言うことをもしも私が子供が生まれたら気をつけていたいと思う。

こんなに手をかかる子がここまで育てられるのは本当にすごい親だと思う。だけど完璧な親はいないんだと思う。そしてお互いに学べばそれでいいんだと思う。そこにジャッジがまたいらないの

判断とは他人がするものそれくらいで良い。そして他人と自分との隔たりがなくなり、判断がなくなればいいと思う。みんな自分のように自分以外を愛して自分や自分以外を愛してそして地球が愛になればいいと思う。

私は嘘をついていた分何が欲しかったのか何も思い出せない。

だけど、今自分への愛を思い出そうとしてる

自分への愛がどこ行ったのだろう

自分への愛は戻ってくるのかわからない。

でも今少し何かがこみ上げてきている私への愛かもしれないし、世界の誰かの愛かもしれない。そして私からの愛かもしれない。

がやりたいことへその愛が連れてってくれると言うことを待してはいけないといろいろな啓発本に書いてある。

でも自分に期待をしていいんじゃないか

自分を愛していいんだからそれでいいじゃないか。

が私で入れると言う事は私が私だと言うことで私はあなたではないと言うこと。

そしてあなたが愛でいてくれれば私も愛でいれるかもしれない。

私が愛でいればあなたも愛でいれるかもしれない。

私は世界のどこかの誰かの愛で助けられたことが何回かあると思う

世界の問題や物事が起きる時、それは人間の影響なのかもしれない。

人間が地球への影響を与えていると言う話は今言われている。地球破壊の話ではなく、地球と人間がつながっていると言う意味での話である。

 

静かにめでめでていれば、私たちは私たちの正しい方向性と歩き出すことができるのではないか。私はたくさんの人に助けられて本当に感謝している。これも嫌や言ってる時もあった。それでもいい。それでも私は私は愛します。ありがとう。

そう言って、今日も寝てみることが第一歩なのかもしれない。

安心して幸せを抱ける。それが地球なのかもしれない。

計り知れない愛を私たちは一人ひとり持っている

安心してまた目覚めよ。

久しぶりに

久しぶりに描いてみた

ぶろぐ

最近私は自分の中に革命が起き始めている

まだ地に足つかない様な

地面が固まっていない様な

不思議とふわふわしているけど、わかりそうでわからない様な

わかったけど忘れてしまいそうな

微妙な感じ

 

今までは楽しく幸せに

なんて軽々しく言ってみてたけど

自分に向けて言ってたわけじゃなかった

どう言うこと?

私に向かって言ってなかった

楽しく幸せでいたいなんてみんな思っていることだけど

それを手に入れるにはかなり自分勝手に迷惑をかける様な方法しか結局見つからなかった

それは本当に不思議な話で私の中にどれだけそれが重くのしかかっていたかと思うほど

私の中でこんがらがっていた

そして幸せになろうとすると誰かが囁いてくる

お前はなんて酷いんだ

こんな事もできずにそんな夢も語るんでない

そんな感情の🫨揺れ動きが大きい日常の中で日々の失敗や恥ずかしい時間を引っ張り出してやまた辛くなったり悔しくなったり

とんでもない

自分にとってとんでもない態度を取ったり、人と比べて卑下したりした

その地を這う様な気持ちで幸せのために立ちあがろうともがき

そのまま力無く倒れ込むのが何回も繰り返され

しまいには立ちあがろうともしなくなって

それをまたちくちくと耳元で囁いてくる

どうして何もできないんだ

努力が足りないからだ

ここから抜け出そうなんて100年早い

そのまま消えてしまえ

そして私は静かにこの世から消え去りたいと思うのであった

これは病名をつけられるほどの症状ではないと自分で思っている

なぜかと言うと、現実には聞こえないからだ

まだ自分の心の中の話であって現実化はしていない

つまり病も気からというものの、気とはどの段階なのか

あるいは生物学的に、医学的に気は治療できるのか

どこが境目なのかはその意思の判定でしかないからまだ私達には余地があるということ

末期だと知らされたものであっても例え何が起ころうと私の中で輝いているものがあろうと

色眼鏡を変えない限り何も見えない

そして何も判断できない

私たちは驚異的な力を備え持ち、その引き出し方を知っている人は密かに実践している様です

何が言いたいかというと

自分が1番先に幸せであるということが

全ての物事に幸せを与えてくれるのだ

そう最近は確信を持ちつつあります

見えないものは全て私たちのもの

私の感じるものは大切な自分が思うこと

評価の基準は自分っで良いということ

協調性などはどこかで学べば良い

まずは自分の心の湖に波風が立っているのか

どこから風が吹いているのか

波の高さはどれくらいか

何が心地よい風か

自分らで知る必要がある

そして求める

恥ずかしいという感情は悪魔的であり私たちの行動を阻んできます

怖い単語を使ってしまったが私がここ10年くらい持ち悩んでいた言葉の一つであって

夢というものを失うきっかけでもある

何を求めるのか

何を求める必要があるのか

私たちが何がしたいのか心から感じて

触れてみる

ただそれが重要てあると

最近諭された気がした

 

傲慢であって良い

それが私という存在だから

それが私という今の魂だから

 

 

もう少し自由に

もう少し自由に生きていいと思うんだ

ころちゃん流行ってたって、自由に生きていいんだよ

だっていんふルちゃん流行ってたって自由に生きてたでしょう?

それとこれとは問題が違うって脳裏のバリカタおじさんがちょっとキツめに言ってくるけどそんなの関係ないもん。

精神の自由は奪えない

でも罪悪感とか恐怖は簡単に奪っていくよね

魂を枯渇させて行動ができないようになるの

わたしはね。

怠けだとか、甘いとか、そんなもんじゃ無いとか、相手や誰かの言葉の上でいきたくは無い。

もっともっと自由に目を向けてあげたい

でも自由になっていいの?

楽しくなっていいの?

どうやって?

本当に?

って脳裏の片隅にいる小さい子がいってる。

そうよ。

良いのよ。

って優しくお母さんみたいに話してあげたいのだけど、脳裏のバリカタおじさんがお母さんを騙しに来る。

そんなことしてたらその子は丈夫に育たない。

もっと厳しくしなさい。

母親はその小さい我が子の気持ちを考えずに、ただ良かれと思ってやったことなのにそれは子供を無視するのと同じこととも言えた。

ねえ お母さん。
私のことを見て?
ここにいるの
どういう気持ちでいていいの?
どうしたら褒めてくれる?
どうしていればいいの?
私、今気分が良くないの。
怒らないで。
悲しまないで。
私、お母さんがいてくれればそれで十分なの

母親は自分のした事と我が子の感情に相違を感じ戸惑いながら謝った。

ごめんね。
私忘れてたわ。
何よりもあなたの事が好きなの。
愛してるのよ。
愛してるからあなたのためを思ってしていると思ったのに、理由ばかりであなたへの愛を忘れていたわ。
愛してるのよ。気づかせてくれてありがとう
お母さんの事いつか許してくれる?

小さい子は少し黙って言った

うん。
お母さんのこと好きだもん
大好き
愛してるの
許してくれないと思ってた
愛してくれてるのとても嬉しいよありがとう

母親は心のなかで泣いた。
申し訳ないと思っていながらもなんの汚れもない我が子の愛に癒やされだた胸がじんわり暖かくなっていくのを感じながら
子供を抱擁した

自分の胸と一緒に地球ごと抱擁した

彼らは1つになった


謎の文章が生まれたが、全ては自由
自分を攻める言葉はかけてはいけない
聞かせてはいけない
聞き入れてもいけない

それを気負うこともなく

ただ健やかに生きる権利がある

情報や情景に囚われることなく

自らの生命の波を受け取り全て受け入れよう

他人に押し付けるのではなく

自分を抱きしめる

大丈夫よ

私が大好きだから。

愛がいっぱいなの

また地球が愛でいっぱいになるわ

感じよう

想像でもなんでもいい
ただ感じよう
望む未来を。


ではお休み

心地よさを求めて

心地よさを求めて

窓を開けて空気を入れ替える

夏のそらの匂いがしてきた

まだ雨が多いけれど

また明日太陽は登ってくれる

そしてまた、生き生きと生きることができる

今日もありがとうと言って目覚め

今日もありがとうと言って眠りにつこう

全ては叶うのだから

全ては私達の中にあるのだから。

青春の記憶

高校時代のお話
3年間を通して私は常に
普通でない
ということがわかった

出席番号から始まる本当の意味での入学式
何も知らずに何も分からずにとても綺麗で大きな建物に入っていく。
今年から新校舎
君達は良いタイミングで入学したね
その新設工事が終った第一期生だよ

何もわからなかったが制服も校舎も全て新しかった。
何をするか分からずに取り敢えず専科を決めて分野に別れた。
クラスは学科ごとに別れ美術系だったので男子は40人中5人くらいといったとこだった。
大変だっただろうな男子、、
とても普通の高校生とは言えない変わった学校で変わったクラスだった
クラス色が無いようでめちゃくちゃなんか強い。でもこれと言って何がと言うわけではない。黙認のクラス
良くも悪くも黙っている
クラスをまとめるのなんて本当に大変だったと思う。
まとめようとする事が、そういう概念自体が間違っている。あるいは[無駄]と、かなり個々の信念が強かった。
表現の学校である以前当たり前かもしれない
高校生と言えどまだ中学を卒業したとこだというのにいきなり大人にさせられようとする年頃という印象が強い。
柔らかくスポンジのような吸収力でありとあらゆる物事を体験していく。
傷付き、壊れかけそうな心は一筋の光で一瞬にして晴れ渡るような潤いとエネルギーを持っている。
私は多分エネルギーが有り余っている方で
卒業する頃にはかなり尖った性格が周囲と自己との狭間でよじれる手前だった。


今日は眠いのでまた続きは気が向いたら更新します。おやすみなさい~

いきにくさを感じる

とてつもない息にくさを感じるがやる気は特にない。
この重苦しい息にくさも感じないようにしているうちに何にどう感じているか分からなくなってしまった。

どうしてここにいてどうしてこんな気分になっているのか、振り返る事も前向きな考えを起こそうとするのもやめた。
ただ、今思い起こされるイメージや周りの出来事今自分がスマホを見ているか、何も見ないでただ歩いているだけなのか、料理をしているのか友達と話しているのか、、
何かをしている最中でもイメージは現実と一緒に体験できるからとても厄介に思うこともある。
辛かったことや恥ずかしいこと,悩ましいことは特に現実を曇らせる。良い空気を吸っていながら味がわからない。ぼーっとしてしまう。

そんな感じですごく嫌な気分になってた。
ふと思い出した事があった
女性である事が不利にされる事だった。
ぼんやりと感情や情景が思い起こされたが思い出すのはやめた。

女性が生きやすく過ごせるようになって欲しいです

という言葉は一見それっぽく聞こえるがあまりそうとは言い切れない。(私独自の見解なので気にしないで下さい)
〜が〜なって欲しいです

〜に〜してほしい
つまり他人に押し付けたり自分以外の人に要求している事になる。
まず自分が生きやすいと感じることが大切であった事にやっと気付いたのだった。。。
なんてことだ、、わたしとしたことが、言葉通りに受けず過去や周囲の感情に飲み込まれていた。。。
私本位で無きゃいけないのだ。
日本の人々は全体的に我慢し過ぎなのかもしれない。
一生に一回の人生を。

自分をいじめてた ごめんね

そう、タイトルどおり自分をいじめて生きてた。今ふと急に思ってブログにしているけどとても不思議な気分。今までも頭では分かっていても分かっているだけだったみたい。私はいじめられてた。
自分を卑下し、いじめることで本来より多くの努力をする≒褒められる
に近い感覚でいじめを公認していた。

不利にさせれば今まで以上のものが手に入る、あるいは、代償を先に払えば欲しい物が得られるといったある意味で間違った形式を自分で使ってしまっていること。

楽な道と辛い道があったら、辛い道に行け
あえて困難な道のりを選ぶ
など、不安を糧にして追い込む方式は中学ではよく使われた法則だった。

でも、このいじめは誰にも知れず鈍痛のように胸に刻まれる感覚がある。
そして、何か息詰まるような喉が詰まったり気持ち悪くなるような違和感やふとした時にネガティブな環境を吸い取って自分にふりかけてしまい一日を無駄にしてしまうことがある。
世界にたった一人のような孤独感
今この場所から消えてなくなってしまいたい
全て捨ててどこかえいってしまいたい
病気かもしれない
息がし辛い
死ぬかもしれない
何もできない
何も意味がない
オシッコが近いかもしれない
将来が怖い…笑

関係なく物事や感情は動かない
関係無い、話が違う、論点がズレてる、、色々言葉はあるけどまず自分の感じた事を素直に認めてあげて抱きしめてあげる。
何か不安に近い気分が込み上げてきたらそれは自分いじめの仕業かもしれない。ちょっとラジオの周波数が?合ってしまっただけ。すぐにダイヤルを回して違うラジオ局に戻す。出来なかったら電源を落として窓を開けたり深呼吸。携帯見たり本読んだり気をそらすのでもいいよ。

そして、怖かったね、悲しかったね、辛かったね、ごめんね。こんな気持ちにさせてしまってごめんね。ってイイコイイコして抱きしめてあげて。

もう十分だよ
自分の首、手、腕、胸、足、頭、何でもいいからいっぱい触ってあげて。喜ぶ場所はもっといっぱい触ってあげて。ありがとう
ってつぶやいたりしてみて。お布団、椅子、床、お部屋、お家、地球みんなありがとう
少し暖かい何かが湧き上がってくる気がするんだ。
幸せは自分からなんだってさ
今日もありがとう
またね